長谷川氏を反面教師として「謝罪」の作法を学ぶ

この9月にフリーアナウンサーを生業としている長谷川豊という人のブログでの発言が「炎上」して大批判を浴び、ついにご当人が仕事まで失ってしまったという出来事がありました。執筆の姿勢というものを考える上で非常に考えさせられる事例だと思います。ことに「謝罪」のあり方についての良い教訓になるでしょう。

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謝罪文とはそもそもどうあるべきなのか

『大人のための書く全技術』(齋藤孝著)は「謝罪文にこそ文章力の実力が出る」と指摘しています。特に注目すべきポイントを挙げると次のようになるでしょう。

  • 「何について」謝罪しているのか明確にせよ
  • 謝意を自分の言葉で表現せよ
  • まちがっても自分の立場をよくしようなどと考えるな

長谷川氏は一応謝罪しているつもりらしいが

上記を踏まえて、今回の長谷川氏の書いたものを読んでみましょうか。10月4日、長谷川氏は「この度の騒動で嫌な思いをされた全ての方に心よりお詫び申し上げます。」と題して謝罪の意を綴っています。

いわく、「言葉のチョイスが完全に不適切」・「人工透析の治療を受けていらっしゃる患者の方々、その方々を支えてらっしゃるご家族の皆様方、関係者の方々を深く傷つける表現をしてしまった」・「多くの読者の方々にとっては、あのブログはかなり一方向からの指摘であった」など、さしあたり具体的な問題点を挙げて謝意を示しています。これはプラスポイントと評価したいところです。ここまでは......。

ところがこの日以降に追加された記事によって長谷川氏は全てを台無しにしてしまうのです。

まず10月6日の記事。

突然の謝罪文も違和感ありましたしね(苦笑)。あれ、MXの皆さんが必死に考えてくださった文章です。本当に懸命に守ろうとしてくださったんです。

これはもう論外です。自分の言葉で謝罪の言を述べたことだけは評価しようと思いましたが、その言葉が「借り物」であったことを暴露してしまいました。しかも「違和感ありましたね(苦笑)」でとどめが刺された感があります。謝罪は本気ではなかった。あくまでポーズとして謝って見せただけだよと言い放っているわけです。

その上でご丁寧に「上から目線」で説教までやってみせてくれています。

ネット上で知識人ぶって批判している、この世論の流れに乗っかってるだけの連中がいますよね?    笑わせます。  誰も僕の目の前に言いに来ないの。  面と向かったら言い負かされるの分かってるから。

さらにこんなものも。

君らがネットにうっ憤を晴らすしかできなくなったのは、社会のせいじゃない。君ら自身の性格や努力不足のせいだ。

下らないネットいじめに乗っかって、必死にパソコンを打つの、いい加減もう辞めときな。
言いたいことや不満があるなら、これからは直接僕に言いに来い。そんなことまではする気はないだろ?

ブログ全体としてみれば「自分の立場をよくしようとしている」と解釈されても仕方がありません。

ブログを読んだ読者のことなど彼はぜんぜん考えていない。彼の文章によって「傷ついた」人たちのことも彼は全然考えていない。自分を「守ってくれた」身内のことしか考えていない。謝罪を向けるべき人々のことを何も本気で考えていないから、「自分は悪くない」という発想しか出てこない。そのように解釈せざるを得ない文章です。

このような文章を許してくれるのは根っからの長谷川フリークだけでしょうね。多くの人がパソコンの前で眉をひそめ「最悪」とつぶやいたはずです。何も謝罪しないでいたほうがまだしもマイナスイメージは少なくて済んだでしょう。

長谷川氏は、何について謝らなければならないのかわかっていない。言葉は借り物。しかも強気で横柄。

冒頭に挙げた三点いずれも出来ていません。私が監督者の立場なら、ゼロから書き直しを命じたいところです。

「伝わらない文章」は失敗でしかない

謝罪文の書き方以前の問題として、長谷川氏は「人に読んで頂く」文章の書き方を致命的に勘違いしていたと思います。

上記の10月6日の記事をみれば、この人の次のような考えでいることは明白です。

自分の論理は間違っていない。自分が正しい以上、隅から隅まで読んでないお前らのほうが悪い。

これが趣味のブログなら、そのような姿勢でも結構でしょう。ですが、彼のブログは、彼が直接利益は得ていないにしても業務の一環として位置づけられ、読者もそのように受け止めていることは明白です。だからこそ問題視され番組を降ろされたわけです。

伝えたいことを伝えられない文章は失敗作。「読者が悪い」は論外の考え方です。読者ではなく書き手の落ち度だったとして反省しなければなりません。

謝罪文は一段と難しい

謝罪文の場合、事態はさらに深刻です。普通は、伝えたいことが伝わらなかったとしても、最悪ゼロがゼロのままで終わるだけです。しかし、謝罪文を書かねばならない状況では、読者はすでに「マイナスのイメージ」を持っています。それをプラスか少なくともゼロに変えてもらう説得のための文章が謝罪文です。ハードルは相当に高いと考えなければなりません。

謝罪文は、ふつうの文章の何倍も意を尽くして書かれなければならないのです。

長谷川氏も10月も末になって遅ればせながら問題の深刻さを認識し始めた様子です。いまからでも勉強しなおして捲土重来を期していただきたいものです。

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