常識を「少しだけ外す」

始めから終わりまで分かりきったことしか書かれていない文章に存在意義はありません。といって、ひたすら目新しいもの・新奇なものばかりを並べ立ててもいけない。文章とは常識を「少しだけ」外すように書かれるべきものです。

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文章に求められる「新しさ」とは

文章を読もうとするとき、人はそこに何か新しいものを発見することを期待します。

  • 提案書であれば、新しいアイディアに触れたい。
  • 報告書であれば、新しい成果がでたという話を読みたい。
  • 小説であれば、あらたな感動を味わいたい。
  • 好きなタレントのブログであれば、そのタレントの日常や今後の予定を知りたい。

しかし、ただ新しいだけではダメなのです。読者は「理解できる新しさ」を求めています。理解できないものを人は受け入れません。そして、古くて馴染みのある知識に頼って新しいものを理解しようとするのが人間というものです。筆者が読者に提供しなければならないのは、古いものとの「つながり」を伴った新しいものなのです。

少しだけ外す=接点を作る

好評を得る文章とは、常識を少しだけ外すことに成功した文章です。

少しだけ外すとは、常識を完全に排除するのではなく接点をきちんと維持しておくということです。馴染みのあるネタと新奇なネタを混ぜ合わせ、しかも、両者をただ並べるだけでなく、その間にきちんと橋をかけておかなければなりません。

このことは、仮にも人に読んでもらうことを前提とするならば、ジャンルを問わずあらゆる文章に求められます。

たとえば、提案書を考えてみましょう。「提案」が文章の柱になるわけですが、提案そのものに終始する提案書などありません。まずこれまでの業績の要約を述べることから始めるものです。骨格を簡単に示せば次のようになるでしょう。

  1. 「過去に〇〇に成功した。」(古いもの)
  2. 「しかし、●●はうまくいっていない」(古いものから新しいものへ)
  3. 「そこで、□□の実行を提案する」(新しいもの)

報告書であれば第2項が「今回は新たに●●を試みた」などとなり、第3項は「これにより□□が達成された」あるいは「その目途がついた」となるでしょう。

学術論文でも基本骨格は同じです。上記の「成功した」が「解明された」などとなり、「うまくいっていない」が「まだ明らかでない」とかになり、「実行を提案した」が「われわれの研究により、■■であることが示された」などとなります。

その他のビジネス文書でも、多くが同様の骨格を持っているといえるでしょう。では、ビジネス文書以外ではどうでしょうか。

たとえば、タレントのブログを考えてみましょう。テレビを見た、買い物に行った、新しい製品を試してみたといった話がたいていかなりの比重を占めていますね。こうしたエピソードは読者が普通にいつも体験していることです。そのうえで歌のレッスンに行ったとかリハーサルをやったとかCDをリリースしたとかの「普通でない」話が展開されているわけです。やはり常識的なものとそうでないもの、古いものと新しいものの組み合わせと橋渡しがなされているものなのです。

小説だって、よほど先鋭的な実験小説とかでない限りは、常識との接点が設けられているはずです。遠い未来の外宇宙を舞台にしたSFだったとしても例外ではありません。食事だの通勤だの、現実の我々が知っている営みが描写された上で、奇想天外な冒険の話につながっているはずです。

どこを「外す」か

常識を外して新しいものを入れよといわれると、その外した部分を「結論」にもっていくことをまず考えるかもしれません。もちろんそのようなパターンも多いですが、結論そのものは陳腐でも、結論を導き出すまでの過程が常識を外しているというパターンもありえます。これはこれで魅力的な文章に仕上がる可能性は大いにあるといえます。ありえないような体験を綴って、最後が「他人の親切が身に染みた」のように終わるエッセイを見たことがあるでしょう。

文章には独自性が必要。しかし、文章を始めから終わりまで「かわったもの」にする必要はないのです。大半の内容や形式は陳腐なものであってもかまいません。どこかにたった一点だけ、渾身の新しいネタを入れ込むことを考えてみましょう。

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